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市の歴史

人物

阿久根の人物

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島津藩の貿易商

河南源兵衛根心かわみなみげんべえもとなか

 河南源兵衛は、江戸時代の初期明国からこの阿久根に帰化し、はじめ藩の唐通詞(通訳)、のちその御用商人を兼ねた。中国名の藍二官を改めた日本名で、源兵衛はその次男家が商人として代々名乗った襲名である。

 これら代々の源兵衛は、藩の海運貿易を通じてその財政に貢献し、また郷土の発展に尽くしてきたが、その中で、最も活躍したのは七代根心であった。この根心は通称を政助源兵衛ともいい、文永9年(1812年)10月7日に生まれた。根心の壮年時代には、持船も23反帆船(今の約300トン級船)数隻を運航させ、その雇用した船頭、水夫、船大工以下雑役人夫の数は、常時300人を超える盛況であったといわれる。

 また根心は、性来文化的で、和歌や俳句を詠み浄瑠璃や芝居をみて楽しんだ。このことは幕末の郷土阿久根の文化向上に大きく貢献することになった。

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外務卿(外務大臣)

寺島 宗則てらしま むねのり

 宗則は、天保3年(1833年)脇本槝之浦の長野祐照の第二子として生まれたが、すぐに祐照の実兄松木宗保の養子となった。幼名を藤太郎といい、後に松木弘安と名のった。養父宗保が、医術研究のため長崎に派遣されたので、弘安も父に従い10歳ごろまで、長崎で蘭語を学び医書を読んだ。文久元年(1861年)弘安は、訳官、医者を兼ねて欧州各国を福沢諭吉などと旅行して、大いに先進諸国の文化を吸収して帰った。ついで慶応元年(1865年)薩摩藩の海外留学生となり、出水泉蔵と変名して渡欧した。帰国後、弘安は勤皇倒幕を志すようになったので、幕府役人時代の名松木弘安を変えて寺島陶蔵と改名、その後宗則と改めた。明治元年(1868年)大久保、岩下などとともに参与に任ぜられ、6年、外務卿(外務大臣)に栄進し、12年には文部卿(文部大臣)などもつとめ、明治新政府の基を築いた。

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阿久根温泉の父

中村 静興なかむら せいきょう

 静興は幼名を友吉といった。早く両貌を失い、おばに育てられたが、このころよく高松川に水泳に行った。その時、川底に暖かい所があったので、湯が出るのではないかと思うようになった。その後静興は、薬問屋に奉公しながら独学し、明治22年帝国医科大学予科に入学したが途中長崎医専に転校し卒業した。

 その後開業したが、人々の信頼は厚く患者の絶える間がなかったという。明治44年(1911年)10月、少年時代から夢みていた温泉掘削に着手した。しかし温泉はなかなか出ず、長い掘削工事のために、たくわえた資金も全部使い果たしてしまった。それでも静興は屈することなく、堀り続け45年(1912年)4月23日午前10時、ついに静興の努力は報いられ、待望の温泉はわき出たのである。

 この温泉場からは、潟の田んぼに舞う美しい鶴が見られたので、舞鶴温泉と名づけた。

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教育者・歌人

田中 常憲たなか つねのり

 田中常憲は明治6年(1873年)高松橋にほど近い波留の田中六郎右衛門信次の次男として生まれた。

 小学校教員養成所に入所、卒業すると長島の鷹巣小学校の校長に抜てきされたが、年わずかに23歳であった。

 明治34年(1901年)中学校の教員免許状をとり、同年4月長野県上田中学校、続いて大阪の天王寺中学校、大分県竹田中学校、福岡県朝倉中学校に勤務した。

 その後宗像中学校教頭、大正9年(1920年)には田川中学校の校長となり、京都府福知山中学校長を経て桃山中学校長となった。上田中学在職当時、いまでも長野県下青壮年の間に愛唱されている『信州男児』の歌をつくり、桃山中学校長時代には桃陵健児の歌をつくって若人たちに親しまれた。また現在も歌い継がれている母校阿久根小学校の校歌も常憲の作である。

 また、常憲は歌人としても有名で、歌誌「新月」を主宰し、多くの歌集も出している。

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法曹界の偉材

田中 右橘たなか うきつ

 田中右橘は、明治8年(1875年)波留の末田景春の二男として生まれた。3歳のとき、同じく波留の旧家田中太郎次の養子となり、田中家を継ぐことになった。

 明治21年(1888年)阿久根小学校の第1回卒業生として卒業、続いて鹿児島中学、熊本第五高等学校と進み、明治35年(1901年)東京帝国大学法学部を卒業した。

 すぐに司法官試補として京都地方裁判所に奉職、以律判事、部長判事と進み、大正9年(1920年)奈良地方裁判所長、そして大審院(最高裁判所)判事、仙台、広島、大阪、東京の各控訴院長をつとめた。また、ジュネーブにおける万国手形法に関する国際合議に、わが国の全権として出席した。昭和10年(1935年)には、司法界における多年にわたる功績により正三位勲二等に叙せられた。また、奈良地方裁判所長のころ、千頭に及ぶ人なれした奈良春日大社の鹿を見て郷里の大島に放つことを思い立ち、大社の宮司水谷川男爵に相談して、神鹿2つがいを当時の村長白浜八郎次にもらいうけてやったこともあった。

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初の世界一周機長

中尾 純利なかお すみとし

 中尾純利は明治36年(1903年)山下の中尾助太郎の三男として生まれた。この1903年という年は、ライト兄弟がはじめて大空を飛ぶことに成功した記念すべき年でもあった。小学校へ通うようになった中尾少年の手には、当時の少年雑誌「飛行少年」がいつも握られていたという。

 純利を一躍日本一の空の男としたのは、昭和14年(1939年)8月純国産機の「ニッポン号」の機長として、世界一周親善の飛行に飛び立ったときである。純利が操縦する「ニッポン号」は8月26日全国民の歓呼の中を羽田飛行場を飛び立ち、カナダアメリカ、南アメリカ、アフリカ、ヨーロッパ、アジアと五大州、52,860キロの世界一周のコースをみごとに飛び終えたのである。10月20日羽田に帰還した「ニッポン号」は、純利のみごとな操縦により出発以来56日間、滞空時間194時間の壮挙を無事終えたのである。

 純利は、昭和27年(1952年)羽田空港が、米軍から返還されて東京国際空港となると、その初代空港長となった。

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