
TOP>市の歴史(歴史紹介)
市の歴史
歴史紹介
阿久根の地名の由来
阿久根の地名が日本の歴史上初めて見られるのは、延喜式の「英祢駅」であるとされ、平安時代の前期、西暦901年から922年の頃になります。当時の薩摩の国における主要道路上の宿駅で交通機関である「伝馬」と「駅馬」が置かれていました。当時は「英祢院(郷)」と呼ばれ、平安時代末期には阿久根の最も古い豪族、平家の一族神崎太郎成兼が「英祢氏」を名乗り、院司として支配していました。市内の波留地区と山下地区の中間、南方神社北側一体に英祢氏の集落があったと思われています。
鎌倉時代には「英祢氏」は「莫祢氏」となり、地名についてもその様に表記されるようになりました。
以後は島津一族の支配下にあり、1451年、莫祢氏(九代良忠)は薩州島津家の家老として仕え、家名を「阿久根」とし、地名も「阿久根」に改めました。
阿久根温泉の歴史
阿久根温泉は明治45年、本町の医師中村静興によって発見された温泉です。
もともと高松川河口に近い川原には古くからお湯が吹き出ていましたが、誰も掘ろうとしませんでした。このことに早くから目をつけていた中村静興は各地の温泉を研究し、明治44年温泉開発に取り組みました。静興の努力のかいあり、明治45年4月23日、ついに熱湯が吹き出しました。
喜んだ静興は大正2年に一大浴場を開設(舞鶴温泉)、その後周囲にも浴場がつくられ、温泉の町阿久根の礎が築かれました。
温泉開発の成功を記念して戸柱に温泉神社が築かれました。
ボンタンの歴史
ボンタンは阿久根のシンボルとして昭和46年に市の木として制定されました。直径20センチメートル程度になる大型の柑橘類で、阿久根は全国有数の生産量を誇ります。
そのようなボンタンの由来については次の4つの説があります。
 |
- その1
- 元禄年間(1688〜1704年)中国、福州の船が阿久根に漂着したとき、船長の謝文旦が原田喜右衛門に苗木を贈ったという説。
- その2
- 寛保のころ(1741〜1744年)阿久根に唐(中国)の船が来たとき唐の通訳であった原田喜右衛門がこの船に乗っていた唐の人から漢種の乳柑(文旦)をもらって帰り、その実を蒔いて育てたという説。
- その3
- 安永のころ(1772〜1781年)中国・広東の商船がひどい波風にあい阿久根に流れ着きました。このときの船長謝文旦が通訳原田喜右衛門に「朱らん」と「白らん」の2個をあたえた。これを原田が育てたという説。
- その4
- 安永元年(1772年) 福建省と長崎の貿易を行っていた謝文旦が商用で阿久根に錨をおろしたとき、倉津番所の通訳原田喜右衛門からていねいな取り扱いをうけた事に感謝し、「朱らん」・「白らん」を贈ったという説。
|
このようなことからボンタンは漢字で「文旦」と書き、船長謝文旦からとった名前と言われています。
大島の鹿の歴史
阿久根大島には現在100頭前後の鹿が、阿久根のシンボルとして生息しています。これらの鹿は元々ここに住み着いていたもでのはなく、過去の人々の努力によって現在の状況になっています。
最初は万治年間(1658〜1660年)時の藩主島津光久によって放たれた一つがいの鹿が始まりとなっています。
この鹿は種子島から献上された2頭で、島津の藩邸で飼育されていたものです。
鹿はしだいに繁殖し、明治はじめごろには数百頭に達したと言われましたが、西南戦争やその後の開墾により明治37年には全滅してしまいました。
大正になり、当時阿久根村の村長であった白浜八次郎は、村の有志と相談し、再び大島を一大公園として活用するため、大正4年に6つがいの鹿を放しましたがその後行方不明となってしまいました。また、大正10年には奈良春日神社の鹿を放しましたがこれも姿を消してしまいました。
そこで、やはり島には島で育った鹿がいいのではないかということで大正14年と15年の二度にわたり、馬毛島の鹿6つがいを放しました。
この鹿は成功し数百頑まで増えたのですが戦中戦後に次第に減少し、昭和24年頃には20〜30頭まで減少しましたが、その後手厚い保護により現在の頭数にいたっています。
ページ最上部に戻る
TOP>市の歴史(歴史紹介)
|