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波留潟地区に自生しています。常緑の熱帯植物で漏斗状の紫の花を11月から4月頃まで開花します。 普通は種子島以南に生育し、潮風の吹く温かい海辺やその付近の淡水地に育ち、南洋方面では高さ3メートルに及ぶものもあります。 天草(苓北町)、五島列島などにも自生していますが、阿久根のものは九州本島唯一の自生地として指定されています。 |
昭和32年、小学5年生の坂元榮次君によって阿久根浜で発見された16世紀頃のポルトガル砲です。 当時の船舶に積まれていたものが、何らかの事情で阿久根沖に投棄されたものと思われており、阿久根の海外とのつながりを知る貴重な資料として郷土資料館に展示されています。 |
波留地内の南方神社(諏訪神社)の8年毎の例祭に舞われるもので出雲流の神楽の系統に類するものと言われ、露払に始まり、神降ろし、瓶舞、弓舞、剣舞、田ノ神、将軍舞、鬼神舞からなります。由来は明らかでないが、現在鬼神舞に使用されている面は、宝暦年間(1751〜1764年)に作られたことを考えると、この頃には既に舞われていたと考えられています。 近年は保存のため毎年仮奉納が行われ、前回は平成7年8月24日に奉納されました。 |
脇本上原にある古墳時代(6世紀頃)の組合せ箱式石棺2基からなる古墳群、墳丘等は確認することはできませんが、昭和44年の調査によって鉄剣・刀子・鉄鏃等が確認(郷土資料館に展示)されています。 これらは、字名をとって糸割渕古墳群と言われています。近隣の新田ケ丘古墳群と合わせて脇本古墳群と呼ばれて、横穴式石室、地下式板石積み石室等、種類の違う墓制が隣接している等、鹿児島の古墳文化を知る貴重な遺跡です。 |
脇本槝之浦字皿山にある磁器窯跡です。安永年間(1772〜80年)に築かれたと言われています。県内最古の磁器窯と言われ、川内平佐焼きの前身であると言われています。 昭和47年に調査が行われ、燃焼室や窯道具が確認(郷土資料館に展示)されています。現在県道工事により中央部は消失していますが、残った部分については埋め戻して保存されています。 |
脇本上原にある6世紀ごろの4基よりなる古墳です。 横穴式石室2基、地下式板石積み石室1基、組合せ箱式石棺1基からなる古墳群、墳丘等は確認することはできませんが、昭和44年の調査により鉄剣・刀子・鉄鏃等が確認(郷土資料館に展示)されています。 これらは、字名をとって新田ケ丘古墳群と言われています。近隣の糸割渕古墳群と合わせて、脇本古墳群と呼ばれ、横穴式石室、地下式板石積み石室等、種類の違う墓制が隣接している等、鹿児島の古墳文化を知る重要な遺跡です。 |
波留諏訪の南方神社(諏訪神社)にある石の鳥居で、万治2年(1659年)折口伊兵衛重芳が奉納したものです。 折口伊兵衛重芳は、家業である焼酎造りの成功を南方神社に祈願し、焼酎造りに精進して、その後「千酒」と銘打つ焼酎の製造に成功しました。時の藩主島津光久が参勤交代で阿久根に1泊したおり、これを献上し光久に大変喜ばれ、「阿久根諸白」の酒名を与えられました。このようなこともあり、折口伊兵衛の焼酎業は益々栄え、祈願成就のお礼として石鳥居を奉納したものと言われています。 阿久根焼酎の起源を示す貴重なものです。 |
西目中枦川の天狗山中腹にあります。ここは昔修険者(山伏)が修行をおこなった場所で、その修険者が彫ったと思われます。当方面では大変珍しいものです。 現在5つの梵字等が確認されていますが、その中には’文化十三天’(1816年)や’正徳三天五月吉日敬白’(1713年)等の文字があり、その頃のものと考えられています。郷土の民俗信仰の歴史を知る貴重なものです。 |
中央公園にある石像で元文3年(1738年)に町、浜の人々によって建てられたものです。 正徳(正徳元年1711年)・享保(1716〜1738年)の頃、12年間に5回の大火に見舞われました。 そこで阿久根町の有志達は当時法力が偉大で有名な高僧空順法印に火留祈とうを願いました。空順は願いを受けて戸柱で7日間の断食火留祈とうを行いました。その後は40年以上も大きな火災にあわなかったといいます。この像はそれを感謝し建てられたものです。 |
海運業を営んでいた河南一家に残された文書類です。江戸時代初期、寛永年間に中国より帰化した初代河南源兵衛は、唐通詞(通訳)に任ぜられ、後に船主として琉球貿易に当たる御用商人になります。河南家は幕末まで7代にわたり活躍しますが、この文書は代々の河南源兵衛が書きつづったものです。明治維新後、家運の没落と戦火により消失し、天保中頃以後の一部が残っています。 当時の海運関係の資料等貴重なもので、郷土資料館に展示されています。 |
郷土の郷士沼田政右衛門が残した文書で、元禄、正徳、享保、文政の各時代の一向宗禁制に関する一連の文書で、次のものがあります。
当時の一向宗弾圧を知る貴重な資料で、その写本は郷土資料館に展示されています。 |
市の最北、八郷に自生するヘゴ科の木生シダです。熱帯・亜熱帯性のシダ植物で国内では、小笠原、紀伊半島南部、甑島、西南諸島などに見られます。 この阿久根のものは、九州本島自生地北限です。 県内では南大隈町、肝付町、南さつま市、薩摩川内市のものは国の天然記念物に、長島町のものは県の天然記念物に指定されています。 |
古墳時代前期(4世紀)中頃の竪穴式石室で、県内最古の高塚古墳といわれています。 |
市指定文化財。波留南方神社神舞に使用される。宝暦年間(1751年〜1764年)に大工 東園善三郎が作成したといわれています。 |
市指定文化財。波留南方神社神舞に使用されています。 |
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13〜15世紀、元〜明の頃の鏡と見られています。 |
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中世の頃の作品と見られています。 |
鎌倉時代に製作された阿弥陀如来像で、南九州では希少な中世の仏像です。 |
明治の中頃、串木野地区の集落から密かに持ち出され、大変ご利益があったとして、その後返された由緒ある田の神。毎年、秋の収穫期に真っ白に化粧なおしがなされます。 (阿久根のむかし話より) |
県指定史跡の糸割渕古墳群と市指定史跡の新田が丘古墳群からの出土遺物で、鹿児島の古墳文化を知る貴重な出土遺物。 |
製茶、馬術、造園の三事業に長じた「小木原三楽」 翁の墓。藩主斉宣公の命で、宇治で製茶を習い、阿久根茶の名を高めるとともに、薩摩藩の茶業の発展に尽くしました。 |
この文書は門割関係の文書で、旧阿久根地区内の名頭一覧表のほか、鶴川内地区内の数門について、その門高の内容を記録したものです。もともと、門割は、島津藩政の基礎といわれた農政組織で、近世史の研究上きわめて重要な資料ですが、県内に残存するこの種の資料は非常に少なく、阿久根に残されたことはたいへんありがたいことです。
この印は銅製で、玉をくわえた唐獅子像の丸形印で、高さ3.3センチ、底面の直径3.8センチです。わが国では室町時代の末期を戦国時代と呼び、約100年近くも戦乱が続きました。このため、各種の産業は大きな打撃をうけ、中でも上流社会の衣服の原料である生糸(絹糸)は、桑園の戦場化や民家の焼失で養蚕業ができず、全く生糸の生産は停止するありさまとなりました。 そこで中国産の生糸輸入となり、糸印による取り引きが始まりました。中国の商人たちは、生糸をわが国に輸入する際、生糸一斤(0.6キログラム)に対して一個の銅製印と受領書とを添えて送り、わが国の商人たちがこの生糸を受け取る際、量目をたしかめ、量目にまちがいのない時は、この印を受領書に押して返送するようにしたのです。 このように、生糸取り引きに使用された印であったので糸印と呼び、後世、日中貿易の証拠であるとともに、骨董品としても珍重されてきました。 古来より阿久根は、中国に対する南九州の主要な貿易港とされ海運業で栄えてきましたが、この糸印はこれらの事実を示す、重要な資料と言えます。 |
南九州や南西諸島、沖縄あたりによくあるもので、市内に現存するのは1基だけです。 もともと、中国の魔よけや邪気払いのまじないの石で、正面に「石敢当」と刻まれています。鹿児島地方には琉球を経て徳川時代中期の頃入ってきたものと思われており、町のつじや三差路などに建てられています。「石敢当」とは古い中国の豪傑の名前であるとも言われており、南九州特色の民俗資料として貴重なものです。 |
市内に現存する最も古い五重の塔。これは初代莫祢太郎成兼から三代成光までの供養塔と言われ、莫祢氏は賀喜城から山下に移り、莫祢城を築いて居城としましたが、そのとき建てた供養塔だと言われています。
しかし、平成9年の県北西部地震により倒壊してしまいました。
この楼門は、西徳寺の再建のなった明治44年(1911年)のすぐ後に工事にかかり大正2年(1913年)に完成したものです。2層の楼門は6本の支柱に支えられ、精巧な蛟竜などの彫刻を配して堂々たる姿を今に残しています。 また、この山門は2層目が鐘楼を兼ねており、九州一円でも他に1ヶ所あるだけという非常に珍しい様式のもので楼門と呼ばれています。 |
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市内の文化財で民俗信仰においてもっと多いものといえば田之神石像です。これには建立年代に大きな開きがあり、わかっているものでも応永2年(1395年)から昭和31年(1956年)まであります。豊作を祈る素朴な石像で「たのかんさー」と呼ばれ昔から慕われています。南九州だけに存在すると言われ、地方によってしゃもじ・米袋などを持ったり、藁苞を背負うなど、様々な姿が見られます。 |
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